翌朝7時。リカルドはイレーネの宿泊している客室の前に来ていた。「さて……イレーネさんは起きていらっしゃるだろうか……?」コホンと咳ばらいをすると、早速扉をノックする。――コンコン「イレーネさん、起きていらっしゃいますか?」すると軽い足音が扉に近づき、音を立てて開かれた。「おはようございます、リカルド様」白いブラウス。モスグリーンのベストにロングスカート姿のイレーネが姿を見せた。「はい、おはようございます。……もう、すっかり朝の支度は出来ていたのですね?」地味な服装のイレーネを見つめながらリカルドが挨拶する。「はい、そうです。5時に起床しました」「ええ!? 5、5時ですか!? 何故そんなに早く起きられたのですか?」あまりにも早い時間にリカルドは目を丸くした。「はい、いつもの習慣でつい目が覚めてしまったのです。『コルト』に住んでいた頃は朝食の準備があった為に毎朝5時おきだったので」「朝食の準備……? 一体何のことでしょう。とりあえず歩きながらその説明を聞かせていただけますか? ダイニングルームへご案内しますので」「え? ダイニングルームへですか?」「はい、そうです。そこで……」「私が給仕を務めればいいのですね?」「は? い、いえ! とんでもありません! イレーネさんはルシアン様の妻になる方ですよ!? そんな真似させられるはずないじゃありませんか!」そのとき――ガタッ!!背後で大きな音が聞こえ、イレーネとリカルドは振り向いた。しかし、そこにあるのは大きな観葉植物のみで人の気配は無い。「……妙ですね? 今音が聞こえた気がしたのですが……」リカルドが首を傾げる。「はい。私も聞こえましたが……気にしても始まらないので、ダイニングルームへ行きませんか?」イレーネの頭の切り替えは早い。「そうですね。ではダイニングルームへ参りましょう。先ほど、何故毎朝5時に起きていたのかお話を聞かせて下さい」「はい、リカルド様」そして2人は並んで歩きながら、ダイニングルームへ向かった――****「おはようございます、ルシアン様」ダイニングルームには一足先にルシアンが待っていた。「おはよう、イレーネ嬢。昨夜はゆっくり寝られたか?」「はい、あんなに素敵なお部屋を貸して頂けるなんて夢みたいでした。私にはもったいない限りです」ニコニコ
(何だか……今朝は随分給仕の人数が多いな)ルシアンはダイニングルームで給仕をする使用人たちを見渡した。普段なら給仕の人数は1人、ないし2人。それなのに今朝に限っては違った。2人のフットマンに、3人のメイドまでいるのだ。全員、明らかにイレーネを意識しているのは明白だった。「紅茶はいつお持ちしますか?」メイドがイレーネに尋ねる。「そうですね、ルシアン様はいつお飲みになっておりますか?」突然話をふられたルシアンは戸惑いながらも答えた。「え? 俺は普段は食後にもらっているが?」(あのメイドは何故そんなことを聞いてくるのだ? 普段は何も言わずに食後に紅茶を淹れてくるはずなのに! 大体、どこで俺とイレーネ嬢が朝食を一緒にとることがバレてしまったんだ? リカルドは何をしている!)一言、リカルドに文句を言ってやりたいところだが肝心の彼は生憎不在だ。(くそ! ここ最近、勝手な真似ばかりしおって……後で呼び出して説教してやらなければ……!)ルシアンのどこか落ち着きのない様子をみて、イレーネが首を傾げる。「ルシアン様、どうかされたのですか?」「え? あ……何でも無い。ただ……何故、今朝に限ってこんなに給仕が集まっているのか不思議に思ってな」その言葉に、使用人たちが一斉に肩をビクリとさせる。「もう、全ての料理を並べ終えたのだろう?」傍らに立っているフットマンに尋ねるルシアン。「は、はい。ルシアン様。食事は全て提供させていただきました」「そうか……なら、お前たちはもう席を外してくれ。彼女と2人きりで食事をしたいからな」ルシアンはゆっくり、全員の顔を見渡した。「分かりました……それでは我々は一旦席を外させていただきます……」使用人たちはチラチラとイレーネに視線を送りながら、ダイニングルームを出て行った。――パタン扉が閉じられるとルシアンはため息をついた。「全く……好奇心旺盛な使用人たちだ。さて、それでは食べようか」「私も好奇心旺盛ですよ? それにしてもこのマイスター家には大勢の人たちが働いていらっしゃるのですね。私の働く隙もないほどです。……まぁ! 本当にこちらのお食事は美味しいですね」料理を口にし、笑みを浮かべるイレーネ。「そうか、口にあって何よりだ。だが、メイドの仕事は考えないでくれ。君の役目は俺の妻を演じることなのだから。実は……
食後の紅茶を2人が飲み終わる頃、ようやくリカルドがダイニングルームに戻ってきた。「リカルド、お前は今まで一体何処に行っていたのだ?」ルシアンがじろりと睨みつける。「はい、それが……厨房に顔を出して、2人分のお食事を用意して貰いたいと伝えたところ……その場にいた使用人達に囲まれてしまいました。それで、イレーネさんのことを根掘り葉掘り尋ねられてしまって……」「何だって……それで何と答えたんだ?」「そ、それは……」リカルドは興味津々の眼差しで自分を見つめるイレーネに視線を移す。「私の口から無責任なことを伝えるわけにはいかないので、ルシアン様から後ほど直接話があるので待つように伝えました」何とも無責任な台詞を口にするリカルド。ルシアンが切れたのは言うまでも無い。「リカルド! それでは俺に全て丸投げしているも同然じゃ……」そこでルシアンは口を閉ざす。何故ならイレーネがじっと自分を見つめていたからだ。女性の前で声を荒げることをしたくないルシアンは、ゴホンと咳払いをするとリカルドに命じた。「リカルド。イレーネ嬢は紅茶を飲み終えたようだし……ひとまず今は部屋に案内してあげてくれ。そうだな……1時間後、俺の書斎に来て欲しい。まだまだ話し合わなければならないことが山積みだからな」「はい、かしこまりました。私が責任を持ってイレーネさんをお部屋までご案内します」笑顔で返事をするリカルドにルシアンは釘を刺す。「言っておくが、お前にはまだ言いたいことが残っている。イレーネ嬢を部屋に案内したらすぐにここへ戻ってこい」「はい……」落ち込んだ様子で返事をするリカルド。そこへイレーネが会話に入ってきた。「ルシアン様、私なら大丈夫です。部屋の場所は覚えているので1人で戻れます」「いや、しかしだな……万一、リカルドのように使用人に捕まってしまえば……」ルシアンは言葉を濁す。「そのことなら御安心下さい。私、こう見えても口は固いです。何か問われても、ルシアン様から伺って下さいと伝えますから」「そ、そうか……?」引きつった笑いを浮かべるルシアン。(やはり、2人とも……俺に全て委託するというわけだな……)「分かった。では申し訳ないが……イレーネ嬢は一旦席を外してくれ。リカルドと2人で話をしたいからな。そして1時間後、今度は俺の書斎へ来てくれないか」「はい、ル
それからきっかり1時間後――イレーネはリカルドの案内でルシアンの書斎にやってきていた。「イレーネ嬢、わざわざ足を運ばせてすまないな」書斎に置かれたソファに向かい合わせで座る2人。「いいえ、どうぞお構いなく。丁度暇を持て余していたところでしたので。いつもなら庭で畑作業をしている時間でして……お恥ずかしいことに時間の潰し方を良く知らないものですから」「な、何だって? 畑仕事?」その言葉に耳を疑うルシアン。「はい、そうです。食費を浮かす為に家庭菜園をしておりました。幸い、庭がありましたので季節ごとに様々な野菜を育てていたのですよ? 今の季節ですと、玉ねぎ、人参が収穫できます。採れたての野菜は甘みもあって、とても美味しいんです」「そ、そうだったのか……?」傍らに立つリカルドはハンカチで目頭を押さえている。「……うっうっ……ほ、本当に……なんて健気なイレーネさん……」その様子を半ば呆れた眼差しで見つめていると、イレーネが声をかけてきた。「あの、それで私にお話というのは?」「あ、ああ。そのことなのだが、イレーネ嬢に支度金を払おうと思って呼んだのだ」「まぁ……支度金ですか?」イレーネの目がキラキラ輝く。「そうだ、そのお金で服を新調するといい。さて、何着あればいいだろうか……?」「3着もあれば十分です」「な、何!? たったの3着だと!?」「はい、外出着は3着もあれば十分です。勿体ないですから。普段の服は私が持ってきたもので十分ですし」「イレーネ嬢、それは……」ルシアンが言いかけるよりも早くリカルドが反応した。「いいえ! それは駄目です! イレーネさん! 3着と言わず、その10倍……いえ、100倍は作るべきです!」「何だって!? 300着もか!?」これには流石のルシアンも目を見開く。「まぁ! 300着ですか? いくら何でも300着なんて無謀です。本当に、最低限揃えてもらうだけで十分なのですが……」遠慮するイレーネにリカルドは畳み掛ける。「イレーネさん。マイスター伯爵家は、とっても大金持ちなのですよ? 何しろ世界中に取引先がある貿易会社を営んでいるのですから何の遠慮もいりません。欲しいものはどんどん仰って下さい!」「お、おい……! リカルド、お前は一体何を勝手なことを……!」そこまで言いかけた時、ルシアンはこちらをじっと見つ
「しかし……本当に一人で出かけてしまうとは……」ルシアンは2階にある書斎の窓から、イレーネが門を目指して歩く後ろ姿を見つめてため息をつく。「ええ、全くイレーネさんの行動には驚きです。馬車まで断るのですから」リカルドの顔にも心配そうな表情が浮かんでいる。「だが、馬車を出すように命じるにも……説明できなかったしな……早いところ全員に彼女を紹介しなければ……」しかし、あくまでこれは1年間の契約結婚。そんな相手を使用人たちに堂々と自分の結婚相手だと説明しても良いものかどうか、ルシアンは悩んでいた。「もう、事実は伏せて結婚相手だと伝えるしか無いのではありませんか? それに……」「それに? 何だ?」途中で言葉を切ったリカルドにルシアンは尋ねる。「いえ、何でもありません。さて、それでは外出準備を始めましょうか?」「ああ、そうだな。先方を待たせるわけにはいかないからな」ルシアンは立ち上がると、書斎机に向かう。その姿を見つめながらリカルドは思った。ひょっとすると、この結婚は本当の結婚になる可能性もあるのではないかと……。**** その頃、イレーネは――「どうもありがとうございました」辻馬車で駅前に到着したイレーネは馬車代を支払うと、『デリア』の町に降り立った。「本当に、この町は『コルト』と違って大きいわ……」辺を見渡せば、大きな建物が綺麗にひしめき合っている。町を歩く人々も大勢いた。「さて、ひとりで町へ出てきたのはいいけれど……洋品店は何処にあるのかしら」キョロキョロと周囲を見渡す。「町へ出れば、何とかなると思ったけど……交番で尋ねてみようかしら……」そこまで言いかけ、首を振る。「いいえ、迷惑はかけられないわ。自分で何とかしましょう」そしてイレーネはひとりで洋品店を探すことにした。**「まぁ、なんて美味しそうなケーキ屋さんかしら。あら? あの店は本屋さんだわ。あんなに大きい本屋さんがあるなんて、流石は大都市『デリア』ね」あれから30分程の時間が流れていた。今や、イレーネは本来ドレスを新調するという目的を忘れて町の散策を楽しんでいた。「あら? ここは雑貨屋さんかしら?」ショーウィンドウにへばりつくように、窓から店内の様子を伺っていると女性たちの会話が近づいてきた。「それでこの間ルシアン様に会いに行ったのに、外出中で会えなか
「さぁ、ここがこの町一番のブティックよ。どう?」ブリジットが両手を腰に当て、背後にいるイレーネに声をかけた。「まぁ……! なんて大きなブティックなんでしょう。それに、沢山のドレスが並んでいますね」イレーネはガラス窓から店内を覗き、感嘆の声を上げる。「それはそうよ。このブティックは私たちのような貴族しか買えない高級ドレスばかりなのよ。何と言っても、ここはマダム・ヴィクトリアのお店なのだから」ブリジットの連れの黒髪女性が自慢気に語る。「マダム・ヴィクトリア……? そんなに有名な方なのですか?」「あなたって、本当に何も知らないのね? まぁ、そんな貧相な服を着ているのだから知るはずもないでしょうけど。マダム・ヴィクトリアの作ったドレスは今若い貴族女性たちの間で流行の最先端をいってるのよ。彼女のドレスを着るだけで、自分の価値を上げられるのだから」その言葉にイレーネは目を丸くするす。「そうなのですね? 自分の価値を上げられるなんて……素晴らしいです。決めました、私もこのお店で服を買うことにいたします。ご親切にアドバイスをいただき、どうもありがとうございます」お礼を述べるイレーネに、当然ブリジットと連れの女性は驚いた。「は? あなた、一体何を言ってるの? マダム・ヴィクトリアは一流デザイナーだから、それだけドレスの値段が張るのよ? あなたみたいな貧乏人が買えるはず無いじゃないの! 店内に入っても追い払われるだけよ」黒髪女性が目を吊り上げる。するとブリジットが止めに入った。「いいわよ、それじゃ私たちが一緒にお店に付き添ってあげるわよ」「え? 何を言ってるの? ブリジット」「落ち着いて、アメリア」ブリジットは連れの黒髪女性、アメリアの耳元に囁く。「どうせ、彼女は店に入ったところで追い出されるに決まってるわ。だから私たちが付き添って店に連れて行くのよ。どうせお金なんか持っていないのだから買えるはず無いじゃない。彼女に恥をかかせて、身の程を教えてあげましょうよ」「なるほど……それは面白そうね?」「ええ、でしょう?」2人の令嬢がコソコソ話をする様子を、イレーネは首を傾げて見ている。「話は決まったわ。私たちが一緒にお店に行ってあげるわよ。ついてらっしゃい」ブリジットがイレーネに声をかけた。「本当ですか? ご親切にありがとうございます。正直、私一
ブリジットとアメリアが揃って店に入ると、2人の女性店員がすぐに駆けつけてきた。「まぁ、これはようこそお越しいただきました」「本日もドレスを御覧になられるのですね?」女性店員達は交互にブリジットとアメリアに話しかける。「ええ。そうだけど……でも、ドレスを選びに来たのは私たちではないわ。彼女よ」 ブリジットは背後にいるイレーネを振り返る。「は……? こちらの……女性ですか……?」「冗談ではありませんよね……?」メガネをかけた女性店員はクイッとフレームをあげてイレーネを見つめる。「はい、冗談ではありません。本気で、こちらのブティックでドレスを買いたいと思います。何しろ、こちらはマダム・ヴィクトリアという一流デザイナーの方がデザインしたドレスなのですよね? 一流のドレスは着る人を選ぶことは無い、一流だからこそ、誰にでもぴったり似合うドレスを作れるのですよね? 是非、私のような者でも着こなせるドレスを選んでいただきたいのです。こちらのお店で!」イレーネはキラキラ目を輝かせながら、熱く語る。そんな彼女に圧される4人の女性。「ま、まぁ……確かに、マダム・ヴィクトリアはこの町一番のデザイナーではありますが……」「そうですね。一流の店は、誰にでも似合おうドレスを提案できるからこそ、一流なのかもしれませんし……」自分たちの店を一流と褒められ、女性店員たちは気を良くしている。「折角来店されたのですから、選んでみましょうか?」「そうですね、試着だけでもいいかもしれませんね」そこで女性店員たちはイレーネに提案してきた。「本当ですか? ありがとうございます!」笑顔でお礼を述べるイレーネ。「ええ。ではどうぞ奥の試着室でまずは採寸いたしましょう」「ご案内いたしますね」「はい」イレーネは女性店員に連れられ、試着室へ向かう。そしてそんな様子を唖然とした目で見つめるブリジットとアメリア。「ちょ、ちょっとどういうこと……てっきり断られるかと思ったのに」「単なる貧しい女だと思っていたけど……中々口が上手いわね……」ブリジットとアメリアはコソコソ話しだした。「ブリジット、私たちはどうすればいいのよ? 何だかおかしなことになっちゃったわね。もう帰る?」「何言ってるのよ、アメリア。これからが面白いんじゃない。どうせこの店のドレスは高くて手が出せない。買え
試着室へ入ると、早速イレーネは採寸するために肌着姿になった。すると、2人の女性店員が口々にイレーネを褒め称えた。「まぁ! こんなに細いウェストを見るのは初めてだわ!」「手足も細いのに、足には適度に筋肉がついているし……これなら高いヒールの靴を履いても歩けそうだわ!」「筋肉よりも、スタイル! なんてスタイル抜群なんでしょう! これならコルセットも必要ないくらい!」2人の女性店員は興奮が止まらない。けれど、イレーネのスタイルが良いのは当然のことだった。何処へ行くにも歩いていくし、質素な食事生活をおくっていたのだから。2人の女性店員がイレーネのスタイルを褒め称えている姿をブリジット達は悔しげに見ている。「な、何よ……あんなの。た、ただちょっと細いだけじゃないの……」「だ、だけど出るところは出て、引っ込んでる部分はちゃんと引っ込んでるわよ……」しかし、ブリジットは意地悪そうな笑みを浮かべてアメリアの耳に囁く。「でも、あんな貧しそうな女にこのブティックの服が買えるはずないわ。身の程知らずでこの店に来たのだから、恥をかくに決まっているわよ」「そ、そうよね。買えるはず無いわよね。値段を聞いて驚くあの女の顔が見ものだわ」コソコソと話し合う2人をよそに、店員によるイレーネのドレス選びが始まった。「どうです? こちらのドレスは今最先端のドレスですよ。特にウェストの細さを強調できるドレスです」「こちらのデイ・ドレスはとても上品なデザインです。バッスル部分が特徴なのですよ」次々と着せ替え人形のごとく、様々なドレスを試着させられるイレーネ。しかし、そのどれもがスタイル抜群なイレーネに良く似合っていた。当然、ブリジットとアメリアは面白くない。「ふ、ふん。いくらスタイルが良くたって、買えなければどうにもならないのだから」「ええ、そうよ。あの店員達ったら、ドレスを合わせるばかりで肝心な彼女の懐事情を忘れているのかしら」その後もイレーネの試着は続き……12着目の試着を終えた頃――「あの、もうそろそろこのあたりで大丈夫です」イレーネが女性店員2人に声をかけた。「え? さようでございますか?」「まだまだお客様にお似合いになりそうなドレスが沢山ありますのに……」女性店員たちは残念そうな表情を浮かべる。「ええ。それで今まで試着したドレス、合計でおいくら位
馬車が到着したのは、デリアの町の中心部にある市民ホールだった。真っ白な石造りの大ホールを初めて目にしたイレーネは目を丸くした。「まぁ……なんて美しい建物なのでしょう。しかもあんなに大勢の人々が集まってくるなんて」開け放たれた大扉に、正装した大勢の人々が吸い込まれるように入場していく姿は圧巻だった。「確かに、これはすごいな。貴族に政治家、会社経営者から著名人まで集まるレセプションだからかもしれない……イレーネ。はぐれないように俺の腕に掴まるんだ」ルシアンが左腕を差し出してきた。「はい、ルシアン様」2人は腕を組むと、会場へと向かった。「……ルシアン・マイスター伯爵様でいらっしゃいますね」招待状を確認する男性にルシアンは頷く。「そうです。そしてこちらが連れのイレーネ・シエラ嬢です」ルシアンから受付の人物にはお辞儀だけすれば良いと言われていたイレーネは笑みを浮かべると、軽くお辞儀をした。「はい、確かに確認致しました。それではどう中へお入りください」「ありがとう、それでは行こうか? イレーネ」「はい、ルシアン様」そして2人は腕を組んだまま、レセプションが行われる会場へ入って行った。「まぁ……! 本当になんて大勢の人たちが集まっているのでしょう!」今まで社交界とは無縁の世界で生きてきたイレーネには目に映るもの、何もかもが新鮮だった。「イレーネ、はしゃぎたくなる気持ちも分かるが、ここは自制してくれよ? 何しろこれから大事な発表をするのだからな」ルシアンがイレーネに耳打ちする。「はい、ルシアン様。あの……私、緊張して喉が乾いておりますので、あのボーイさんから飲み物を頂いてきても宜しいでしょうか?」イレーネの視線の先には飲み物が乗ったトレーを手にするボーイがいる。「分かった。一緒に行きたいところだが、実はこの場所で取引先の社長と待ち合わせをしている。悪いが、1人で取りに行ってもらえるか? ここで待つから」「はい、では行って参りますね」早速、イレーネは飲み物を取りにボーイの元へ向かった。「すみません、飲み物をいただけますか?」「ええ。勿論です。どちらの飲み物にいたしますか? こちらはシャンパンで、こちらはワインになります」 ボーイは笑顔でイレーネに飲み物を見せる。「そうですね……ではシャンペンをお願い致します」「はい、どうぞ
ルシアンが取引を行っている大企業が開催するレセプションの日がとうとうやってきた。タキシード姿に身を包んだルシアンはエントランスの前でリカルドと一緒にイレーネが現れるのを待っていた。「ルシアン様、いよいよ今夜ですね。初めて公の場にイレーネさんと参加して婚約と結婚。それに正式な次期当主になられたことを発表される日ですね」「ああ、そうだな……発表することが盛り沢山で緊張しているよ」「大丈夫です、いつものように堂々と振る舞っておられればよいのですから」そのとき――「どうもお待たせいたしました、ルシアン様」背後から声をかけられ、ルシアンとリカルドが同時に振り返る。すると、濃紺のイブニングドレスに、金の髪を結い上げたイレーネがメイド長を伴って立っていた。その姿はとても美しく、ルシアンは思わず見とれてしまった。「イレーネ……」「イレーネさん! 驚きました! なんて美しい姿なのでしょう!」真っ先にリカルドが嬉しそうに声を上げ、ルシアンの声はかき消される。「ありがとうございます。このようなパーティードレスを着るのは初めてですので、何だか慣れなくて……おかしくはありませんか?」「そんなことは……」「いいえ! そのようなことはありません! まるでこの世に降りてきた女神様のような美しさです。このリカルドが保証致します!」またしても興奮気味のリカルドの言葉でルシアンの声は届かない。(リカルド! お前って奴は……!)思わず苛立ち紛れにリカルドを睨みつけるも、当の本人は気付くはずもない。「はい、本当にイレーネ様はお美しくていらっしゃいます。こちらもお手伝いのしがいがありました」メイド長はニコニコしながらイレーネを褒め称える。「ありがとうございます」その言葉に笑顔で答えるイレーネ。「よし、それでは外に馬車を待たせてある。……行こうか?」「はい、ルシアン様」その言葉にリカルドが扉を開けると、もう目の前には馬車が待機している。2人が馬車に乗り込むと、リカルドが扉を閉めて声をかけてきた。「行ってらっしゃいませ、ルシアン様。イレーネさん」「はい」「行ってくる」こうして2人を乗せた馬車は、レセプション会場へ向かって走り始めた。「そう言えば私、ルシアン様との夜のお務めなんて初めての経験ですわ。何だか今から緊張して、ドキドキしてきました」イレーネ
「こちらの女性がルシアンの大切な女性か?」イレーネとルシアンが工場の中へ入ると、ツナギ服姿の青年が出迎えてくれた。背後には車の部品が並べられ、大勢の人々が働いていた。「え?」その言葉にイレーネは驚き、ルシアンを見上げる。しかし、ルシアンはイレーネに視線を合わせず咳払いした。「ゴホン! そ、それでもう彼女の車の整備は出来ているのだろうな?」「もちろんだよ。どうぞこちらへ」「ああ、分かった。行こう、イレーネ」「はい、ルシアン様」青年の後に続き、イレーネとルシアンもその後に続いた。「どうぞ、こちらですよ」案内された場所には1台の車が止められていた。何処か馬車の作りににた赤い車体はピカピカに光り輝いており、イレーネは目を輝かせた。「まぁ……もしかしてこの車が?」イレーネは背後に立つルシアンを振り返った。「そう、これがイレーネの為の新車だ。やはり、女性だから赤い車体が良いだろうと思って塗装してもらったんだ」「このフードを上げれば。雨風をしのげますし、椅子は高級馬車と同じ素材を使っていますので座り心地もいいですよ」ツナギ姿の男性が説明する。「ルシアン様の車とはまた違ったデザインの車ですね。あの車も素敵でしたが、このデザインも気に入りました」イレーネは感動しながら車体にそっと触れた。「まだまだ女性で運転する方は殆どいらっしゃいませんが、このタイプは馬車にデザインが似ていますからね。お客様にお似合いだと思います」「あの、早速ですが乗り方を教えてください!」「「え!? もう!?」」ルシアンと青年が同時に驚きの声をあげた――**** それから約2時間――「凄いな……」「確かに、凄いよ。彼女は」男2人はイレーネがコース内を巧みなハンドルさばきで車を走らせる様を呆然と立ち尽くしてみていた。「ルシアン、どうやら彼女は車の運転の才能が君よりあるようだな?」青年がからかうようにルシアンを見る。「あ、ああ……そのようだ、な……」「だけど、本当に愛らしい女性だな。お前が大切に思っていることが良くわかった」「え? な、何を言ってるんだ?」思わず言葉につまるルシアン。「ごまかすなよ。お前が彼女に惚れていることは、もうみえみえだ。女性が運転しても見栄えがおかしくないようなデザインにしてほしいとか、雨風をしのげる仕様にして欲しいとか色々
10時――イレーネは言われた通り、丈の短めのドレスに着替えてエントランスにやってきた。「来たか、イレーネ」すると既にスーツ姿に帽子を被ったルシアンが待っていた。「まぁ、ルシアン様。もういらしていたのですか? お待たせして申し訳ございません」「いや、女性を待たせるわけにはいかないからな。気にしないでくれ。それでは行こうか?」早速、扉を開けて外に出るとイレーネは声を上げた。「まぁ! これは……」普段なら馬車が停まっているはずだが、今目の前にあるのは車だった。「イレーネ、今日は馬車は使わない。車で出かけよう」「車で行くなんて凄いですね」「そうだろう? では今扉を開けよう」ルシアンは助手席の扉を開けるとイレーネに声をかけた。「おいで。イレーネ」「はい」イレーネが助手席に座るのを見届けると、ルシアンは扉を閉めて自分は運転席に座った。「私、車でお出かけするの初めてですわ」「あ、ああ。そうだろうな」これには理由があった。ルシアンは自分の運転に自信が持てるまでは1人で運転しようと決めていたからだ。しかし、気難しいルシアンはその事実を告げることが出来ない。「よし、それでは出発しよう」「はい、ルシアン様」そしてルシアンはアクセルを踏んだ――****「まぁ! 本当に車は早いのですね? 馬車よりもずっと早いですわ。おまけに少しも揺れないし」車の窓から外を眺めながら、イレーネはすっかり興奮していた。「揺れないのは当然だ。車のタイヤはゴムで出来ているからな。それに動力はガソリンだから、馬のように疲弊することもない。きっと今に人の交通手段は馬車ではなく、車に移行していくだろう」「そうですわね……ルシアン様がそのように仰るのであれば、きっとそうなりまね」得意げに語るルシアンの横顔をイレーネは見つめながら話を聞いている。その後も2人は車について、色々話をしながらルシアンは町の郊外へ向かった。****「ここが目的地ですか?」やってきた場所は町の郊外だった。周囲はまるで広大な畑の如く芝生が広がり、舗装された道が縦横に走っている。更に眼前には工場のような大きな建物まであった。「ルシアン様。とても美しい場所ですが……ここは一体何処ですか?」「ここは自動車を販売している工場だ。それにここは車の運転を練習するコースまである。実はここで俺も
翌朝――イレーネとルシアンはいつものように向かい合わせで食事をしていた。「イレーネ、今日は1日仕事の休みを取った。10時になったら外出するからエントランスの前で待っていてくれ」「はい、ルシアン様。お出かけするのですね? フフ。楽しみです」楽しそうに笑うイレーネにルシアンも笑顔で頷く。「ああ、楽しみにしていてくれ」ルシアンは以前から、今日の為にサプライズを考えていたのだ。そして直前まで内容は伏せておきたかった。なので、あれこれ内容を聞いてこないイレーネを好ましく思っていた。(イレーネは、やはり普通の女性とは違う奥ゆかしいところがある。そういうところがいいな)思わず、じっとイレーネを見つめるルシアン。「ルシアン様? どうかされましたか?」「い、いや。何でもない。と、ところでイレーネ」「はい、何でしょう」「出かける時は、着替えてきてくれ。そうだな……スカート丈はあまり長くないほうがいい。できれば足さばきの良いドレスがいいだろう」「はい、分かりましたわ。何か楽しいことをなさるおつもりなのですね?」「そうだな。きっと楽しいだろう」ルシアンは今からイレーネの驚く様子を目に浮かべ……頷いた。****「リカルド、今日は俺の代わりにこの書斎で電話番をしていてもらうからな」書斎でネクタイをしめながら、ルシアンはリカルドに命じる。「はい。分かりました。ただ何度も申し上げておりますが、私は確かにルシアン様の執事ではあります。あくまで身の回りのお世話をするのが仕事ですよ? さすがに仕事関係の電話番まで私にさせるのは如何なものでしょう!?」最後の方は悲鳴じみた声をあげる。「仕方ないだろう? この屋敷にはお前の他に俺の仕事を手伝える者はいないのだから。どうだ? このネクタイ、おかしくないか?」「……少し、歪んでおりますね」リカルドはルシアンのネクタイを手際良く直す。「ありがとう、それではリカルド。電話番を頼んだぞ」「ですから! 今回は言われた通り電話番を致しますが、どうぞルシアン様。いい加減に秘書を雇ってください! これでは私の仕事が増える一方ですから」「しかし、秘書と言われてもな……中々これだと言う人物がいない」「職業斡旋所は利用されているのですよね? 望みが高すぎるのではありませんか?」「別にそんなつもりはないがな」「だったら、
「イレーネ……随分、帰りが遅いな……」ルシアンはソワソワしながら壁に掛けてある時計を見た。「ルシアン様、遅いと仰られてもまだ21時を過ぎたところですよ? それに一応成人女性なのですから。まだお帰りにならずとも大丈夫ではありませんか? 大丈夫、きっとその内に帰っていらっしゃいますから。ええ、必ず」「そういうお前こそ、心配しているんじゃないか? もう30分も窓から外を眺めているじゃないか」ルシアンの言う通りだ。リカルドは先程から片時も窓から視線をそらさずに見ていたのだ。何故ならこの書斎からは邸宅の正門が良く見えるからである。「う、そ、それは……」思わず返答に困った時、リカルドの目にイレーネが門を開けて敷地の中へ入ってくる姿が見えた。「あ! イレーネさんです! イレーネさんがお帰りになりましたよ!」「何? 本当か!?」ルシアンは立ち上がり、窓に駆け寄ると見おろした。するとイレーネが屋敷に向かって歩いてくる姿が目に入ってきた。「帰って来た……」ポツリと呟くルシアン。「ほら! 私の申し上げた通りではありませんか! ちゃんとイレーネさんは戻られましたよ!?」「うるさい! 耳元で大きな声で騒ぐな! よし、リカルド! 早速お前が迎えに行って来い!」ルシアンは扉を指さした。「ルシアン様……」「な、何だ?」「こういうとき、エントランスまで迎えに行くか行かないかで女性の好感度が変わると思いませんか?」「こ、好感度だって?」「ええ、そうです。きっとルシアン様が笑顔で出迎えればイレーネさんは喜ばれるはずでしょう」「何だって!? 俺に笑顔で出迎えろと言うのか!? 当主の俺に!?」「そう、それです! ルシアン様!」リカルドが声を張り上げる。「良いですか? ルシアン様。まずは当主としてではなく、1人の男性としてイレーネさんを出迎えるのです。そして優しく笑顔で、こう尋ねます。『お帰り、イレーネ。今夜は楽しかったかい?』と」「何? そんなことをしなくてはいけないのか?」「ええ、世の男性は愛する女性の為に実行しています」そこでルシアンが眉を潜める。「おい、いつ誰が誰を愛すると言った? 俺は一言もそんな台詞は口にしていないが?」「例えばの話です。とにかく、自分を意識して欲しいならそうなさるべきです。では少し練習してみましょうか?」「練習までしな
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで